【コラム】社会と環境について思うこと(4) 生きる目標の「合言葉」は"SDGs" 子どもも老人も未来のために

<国連75周年の記念の年に>今年は第二次世界大戦が終わり、国際連合が発足して75年。各国首脳が顔をそろえた歴史的な総会が期待されましたが、世界的な新型コロナウイルス問題を抱えて、各国首脳がオンラインを通しての意見表明という、今までにない会議が続いています。顔を突き合わせての丁々発止のやり取りが見られないのは残念です。地球上では異常気象による山林火災にアフリカのバッタ災害、それに加えての新型コロナ対策での経済活動の停滞、失業者の増大、貧富の格差拡大と課題が山積しています。解決への指標としてSDGsを第一にかかげる世界中の指導者の力強い声が聞きたかったものです。しかし、EUが「グリーン・リカバリー」と名付けたSDGs体現の新コロナ対策を打ち出したと聞きました。しかしわが国では、国連週間のPRも物足りず、SDGsに触れた新聞もわずかで残念でした。

<新内閣の取り組みは>この時期にスタートした菅新内閣の方針にも、また、新閣僚の方針にもSDGsについて触れた人は一人もいませんでした。5年前には、ピコ太郎の動画が流れ、啓発パンフも多数配られました。経済界でも、環境に配慮した活動の指標として取り上げ、各地での講演会が続々と開かれました。しかし、安倍内閣では"アベノミクス"の中に入れての肩入れは見られませんでした。続く新しい菅新内閣も前内閣の方針を踏襲し、SDGsについては傍観者的な立場をとっているように見られます。

 新型コロナ対策が第一ではありますが、その前に政治の理念として掲げる目標としてSDGsを力強く謳ってほしかったと思いました。

<年少者向けの啓発図書がどんどん>しかし、小中学生向けに、SDGs啓発本が相次いで発刊されています。学校の教科にはまだ採用されていませんが、一部の学校の社会科授業で取り上げられているようです。また、いくつかの私立高校の入試試験でSDGsについての質問が出されるようなりました。教育のグローバル化が叫ばれていますが、今までの語学優先の国際派の育成ではなく、SDGs教育を受けた世界観を持つ若い世代が、10年後に社会に出るときの変化が楽しみであります。

<かわごえ環境ネットに倣って市の広報に>

 身近な川越市でも、市議会でSDGsへの取り組みが質問されて3年になりますが、具体的な対策は取られていません。今は、総合政策部門で検討されているようですが、市政全般にかかわる課題だけに、具体的な対策になると難しいところです。しかし、何とか市民の目に触れる形でSDGsの理念をPRする必要があります。とりあえず、SDGsへの関心を高める方法として、川越市の広報の表紙に、かわごえ環境ネットの月刊誌のように、SDGsのアイコンを載せることです。「これは何だ?」と市民の話題になるだけでも一歩前進です。

<理想と現実の乖離>まず、SDGsについては「理想ですね」の第一声が出されます。最初のゴールが「貧困をなくそう」で、第二が「飢餓をゼロに」ですが、貧困撲滅と飢餓救済についての行動は、古来から一揆や革命で度々挑戦されてきましたが、いまだに世界からなくなっていません。この問題はアフリカや中東諸国などの遠い国の問題にとどまりません。わが国でも徳川時代、明治、大正、昭和と、貧困と飢餓にまつわるいろいろな事件がありました。75年前の敗戦後の復興で、「一億総中流」と言われた時もありましたが、最近は「格差拡大」の声が聞かれ、身近に散見される問題になりました。こども食堂などでの救済では追いつきません。

<総論と各論は一体>SDGsで聞かれる声は「そうは言っても」「現実は理想通りにはいきません」という声が必ず出ます。SDGsの17の目標は「総論・理想」、169のターゲットは「各論」。「総論賛成、各論はそうは言っても」と物分かりのよい態度が大敵です。愚直に「SDGsの理想を貫徹しましょうと!」「総論各論一以貫之(いちもってこれをつらぬく)」

(武田侃蔵)